【おのののか/タモリ/バナナマン】芸能人になる前の職業が以外な人を5人紹介|映画オーディション
なかには子役出身や、学生時代にミス・ミスターの座を勝ち取った方々もいますが、それはごく少数派でしょう。
大半の人たちは、下積みを経て苦労の中、栄光の座を勝ち取ったのです。
今回取り上げるのは、前職が意外な芸能人の皆さんをご紹介いたします。
タモリ
明石家さんま・ビートたけしと並んで「お笑いビッグ3」の一人であるタモリさん。
以外にも長かった下積みご時代。
保険外交員、ボーリング場支配人、喫茶店マスター…そして居候。
そのデビューは一般的に遅いと言われている30歳のこと。
早稲田大学を中退後すぐ出身地の福岡県に戻り、保険外交員として数年を過ごした後、ボーリング場の支配人へ転身。
さらに、喫茶店のマスターまで務めた苦労人です。
マスター時代に偶然出会っ山下洋輔さん(ジャズ・ミュージシャン)を通じて、笑いの才が文化人の間で話題となり、遂には「神話の九州の男・森田を呼ぶ会」が発足されたと言われている。
文化人の助けもあり、1975年に上京し赤塚不二夫さん(漫画家)の豪邸に居候する傍ら、芸能界で活躍するようになったそうです。
設楽統(バナナマン)
バナナマン設楽が高校卒業後に就職した企業とは?
超売れっ子のお笑いコンビ・バナナマンのツッコミ担当、またピンでは俳優やMCとしても活躍しているのが、設楽統さん。
あまり知られていないですが、最初期のバナナマンは4人組です。
今もなお俳優、タレントとして活躍している西秋元喜さんの呼びかけで、設楽・日村・西秋・西秋さんの元相方の4人でグループを結成されました。この4名で2回だけ稽古した後、設楽と日村が脱退する形で現在のバナナマンが結成されました。
当時の設楽さんが渡辺正行さん(コント赤信号)の運転手だったというのも意外ですが、さらに意外なのがお笑い界に入る前の経歴です。
父親の縁故採用で西武鉄道に入社し、池袋線小手指駅で駅員をされていたそうですが、わずか半年のみの勤務だったそうです。
江角マキコ
若い人たちの間で意外と知られていないのが、女優・江角マキコさんの前職。
バレーボール実業団選手を経てファッションモデルへ転身。
1966年生まれの江角さんは、高校卒業後に日本たばこ産業女子バレーボールチーム(現:JTマーヴェラス)に入団し、バレーボール選手として活動していました。
実業団選手として活躍していた江角さんですが、残念ながら右肩の故障により1987年に引退し、ファッションモデルへと転身。
1995年に唐沢寿明さん主演のドラマ『輝け隣太郎』で女優デビューを果たし、翌年には是枝裕和監督による劇場映画『幻の光』で一躍脚光を浴び、女優としても大ブレイクします。
哀川翔
実は文系?「Vシネマの帝王」の前職とは?
強面の印象で知られる俳優の哀川翔さんですが、その前職は意外にも雑誌のライターさん。
1961年生まれの哀川さんは、鹿児島県立高山高校卒業後に上京し、東京工学院専門学校に進学します。
この頃、評判雑誌「ポップティーン」のライター業としてアルバイトをスタートさせる。
ペンネームは、「ショウ・ロンリーリバー」今も使われている哀川翔という芸名はペンネームからもじったと言われている。
そのような哀川さんですが、ライターと並行して、仲間たちと渋谷の路上でストリート・パフォーマンスを行っていました。この集団が路上パフォーマンス集団「劇男一世風靡」であり、後に『前略、道の上より』でレコードデビューを飾る「一世風靡セピア」の前身となるグループです。
おのののか
レースクイーンとビールの売り子!
駆け出しご時世は二足のわらじでブレイク
高校卒業後にプロダクションに応募し、タレントやレースクイーンとしての活動をスタートします。
そんな彼女が駆け出し時代にやっていたアルバイトが、東京ドームのビールの売り子です。
通常100杯売れれば上出来なのに、おのののかはその美貌を活かして最高400杯を売り捌き、東京ドームのNo.1ビール売り子として殿堂入りされていたようです。
おのののかは週3日のペースで1日あたり3時間前後働いて、歩合給を含めて月収30万円を稼ぎ出していたといいます。